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ヒッティング・パートナーからWTA年間最優秀コーチへ:サーシャ・バインのシンデレラストーリー

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セルビア生まれでドイツのミュンヘン育ちのアレクサンダー ”サーシャ” バイン。日本では、大坂なおみのコーチとして有名になった。父親の指導の下、6歳からテニスを始めたバイン氏は、将来を有望されたトップジュニアとなる。しかし、彼が15歳の時、彼のテニスコーチでもあった父親を交通事故で亡くしてしまう。その後、モチベーションを失った彼は、プロテニスの世界にも少し足を踏み入れてみたものの、ATPランキングでの最高位は、2007年、22歳の時の1149位と振るわなかった。とてもではないが、テニスプレーヤーとして生活できるレベルではなく、そのころは、ミュンヘンでテニスコーチとして働いていた。

そんな時一本の電話が彼の運命を変えた。電話をかけてきたのは、セリーナ・ウィリアムズの過去のヒッティング・パートナーであった Jovan Savic氏。ある日夜遅くに、彼は、バイン氏に電話をしてきて、セリーナ・ウィリアムズが今、ミュンヘンを訪れていて、ヒッティング・パートナーを探している、彼女と打ってくれないか、と頼んできた。バイン氏はその時、パーティーに忙しくて、初めはその申し出を断わった。しかし、Savic氏が1時間後に再び電話をかけてきて、誰も見つけることができなかった、なんとか引き受けてくれないかと懇願してきたとき、同情して、折れたのだ。

そんな風にして始まったセリーナ・ウィリアムズとのパートナーシップは、2007年から2015年まで8年間続いた。その間の彼女の成績は、13のグランドスラム シングルスタイトル、7つのグランドスラム ダブルスタイトル、2008年のオリンピックでのダブルス金メダル、2012年のオリンピックでのシングルス、ダブルス金メダル、など輝かしいものであった。

 

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当初、バイン氏はセリーナ・ウィリアムズにヒッティング・パートナーとして雇われたのだが、すぐに、彼女にとってバイン氏の存在は、ヒッティング・パートナーを超えたものとなった。

ヒッティング・パートナーは通常、地味で不安定な仕事である。コーチや他のチームのメンバーと比べると給料も安し、世間に名前を知られることはまずない。プレーヤーを支えるチームのカーストでも下のほうに位置する。しかしながら、同時に、女子プロテニスプレーヤーには不可欠で重要な存在でもある。プレーヤー同士で一緒に練習することが多い男子プロと違い、女子プロテニスプレーヤーは、他の女子プロテニスプレーヤーと一緒に練習することはほとんどない。彼女らの練習相手は、もっぱら男性のヒッティング・パートナーで、その多くは下位ランクの男子プロプレーヤーが務める。女子のトッププロレベルのプレーヤーでも、男子の下位ランクのプロプレーヤーには敵わない。そのため、他の女子プロテニスプレーヤーと練習するよりも、そのほうが理に適っている。そして、賞金だけでは食べていけない男子の下位ランクプロプレーヤーにとっては、ヒッティング・パートナーとしての収入はとてもありがたい。利害が一致するのだ。

ただ、ヒッティング・パートナーは、通常ただの練習相手であり、彼らが何かをコントロールするということはまずない。基本的には、プレーヤーやコーチの指示に従って、ボールを打ち返すだけである。

実際、2013年にバイン氏はこう語っている。「僕は、セリーナがこういう風に打ってほしいと言えば、それに従って何でもするよ。レフティー(左利き)で打つこと以外はね。他のプレーヤーの真似をすることもある。例えば、先日の彼女の対戦相手は、サマンサ・ストーサーだったから、対戦前の練習で僕はバックハンド・スライスをかなり打ったよ。」

しかし、バイン氏は、セリーナ・ウィリアムズにとって、ただの無名のヒッティング・パートナーではなかった。彼女にとって彼はヒッティング・パートナーであると同時に、トレーナーであり、雑用係であり、ボディーガードであり、カウンセラーであり、そしてなにより、親友であり、家族でもあった。

セリーナはバイン氏について、2013年にこう語ってる、

「親を除けば、チームの中で彼は私にとって最も大切な存在よ。彼は、ただのヒッティング・パートナーではないの。兄のような存在よ。私にとって彼は家族同然なの。」

バイン氏もセリーナについてこう語っている。

「彼女は、僕の母よりも、僕のことをよく知っていると思う。」と。

バイン氏がセリーナと一緒に働き始めたときは、彼女はすでにテニス界のスパースターだった。そんなセリーナに絶大な信頼を寄せられていた彼は、そのせいで、テニス界でも名前を知られるようになった。セリーナは彼を有名人が集まるイベントやパーティーによく一緒に連れて行ったし、彼女の話の中にも、バイン氏の名前はたびたび出てきた。彼女が、ただの名無しのヒッティング・パートナーであったはずの彼を有名にした。バイン氏は彼女との出会いによって、シンデレラとなった。

 

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しかし、そんなパートナーシップも2015年に終わりを告げる。当時CNNの記事の見出しでは、"End of an era for Serena Williams (セリーナ・ウィリアムズにとって一つの時代が終わった)" と書かれ、ヒッティング・パートナーとしては異例の8年間も続いた彼らの別れをメディアは大きくとりあげた。別れの理由は、この時も彼らの口から特に語られることはなかったが、セリーナと関係解消の後、バイン氏は、ライバルであるビクトリア・アザレンカのヒッティング・パートナーになることが決まっていたこともあり、やはり、当時は何かあったのではないかと憶測を呼んだ。しかし、この時セリーナがしたツイートを見る限りは、わりと円満な別れであったようだ。

 

"サーシャとビカ(アザレンカ)、私抜きで、楽しみすぎないでよ。おめでとう、サーシャ。”

”ありがとうセリーナ。分かってると思うけど、僕とビカだけでは、ぜんぜん楽しくないと思うよ(笑)。忘れられない8年間をありがとう。素晴らしい時間だった。。。”

 

その後、バイン氏は、ビクトリア・アザレンカ、スローン・スティーブンス、キャロライン・ウォズニアッキらの女子トッププレイヤーのヒッティング・パートナーとして経験を積み、2017年の終わりから、初めて「コーチ」として、大坂なおみとパートナーシップを組んだ。

そして、2019年に2月に関係を解消するまでの間、大坂なおみは、2018年3月のインディアンウェルズでの優勝を皮切りに、グランドスラムで2つのタイトルを獲得し、世界ランキングも、わずか1年余りで72位から1位に上り詰めた。そして、その功績が認められたバイン氏は、昨年WTAの年間最優秀コーチ賞にも選ばれた。

 

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彼のコーチとしての強みは、自分自身の思うように、自由自在にボールをコントロールして、実際にプレーヤーと打ちながら指導出来ることだろう。頭で描いているイメージをそのまま、自分で実行して練習させることができるので、いろいろなことがスムーズに運ぶ。また、彼は、プレーヤーの心理的な部分に特に注意を払い、選手との「対話」を大切にしながらコーチをするタイプである。実際に、大坂なおみのコーチ時代も、練習嫌いの彼女を上手く「やる気」にさせたことが、彼女の飛躍につながったとされている。

 

今回残念ながら、大坂なおみとは関係解消になってしまったが、初めてのコーチとしての仕事で、これだけの結果を残した彼は、今後もコーチとして引く手あまただろう。ヒッティング・パートナーから、一躍、WTAの有名コーチとなったバイン氏。そんな、華麗な転身を遂げた、彼の次の動きは何なのか。これからの彼の活躍に注目していきたいと思う。